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バイエルン歌劇場 ワーグナー「タンホイザー」

 バイエルン国立歌劇場の來日公演で、ワーグナーの「タンホイザー」を見た。
 指揮は来年、サイモン・ラトルの後任としてベルリン・フィルの主席指揮者に就任が決まっているロシア人キリル・ペトレンコ。当然、期待が高まらないわけがない。また期待通りのいい指揮、いい演奏だったと思う。
 タイトルロール、タンホイザー役のクラウス・フォークトも線が細いということで毀誉・褒貶はあるようだが私は好きだ。
 問題は演出だったと思う。
 今年の5月にミュンヘンで初演されたばかりの新演出ということだが、演出ばかりでなく美術も衣装も照明も自分でやってしまうという多才なイタリア人ロメオ・カステリッチだ。才子、才に溺れるといったところか。
 
 「タンホイザー」は、1845年初演の前のタイトルが「ヴェーヌスブルグ」であったことからも分かるように、ヴェーヌス(ヴィーナス)という名の高級娼婦の美とエロスとが元来メインのモティーフだったはずだ。
 イタリア人ロメオの演出では、このヴィーナスが「スターウオーズ」のジャバみたいな、ぬめぬめの気味の悪い醜悪な装置で現れる。最低じゃないか。
 そのせいか、「タンホイザ」ーはもともと第一幕の前半、このヴィーナスのソプラノとタンホイザーのテノールの「愛の賛歌」との激しい掛け合いが、最も魂を揺さぶられるシーンのはずなのだが、この日の演出ではまったく盛り上がりを欠いた。
 このシーンが盛り上がらないので、当然第二幕の命がけの歌合戦のシーンの「愛の賛歌」も盛り上がらない。
 
 ただ第三幕の「ローマ語り」のシーンに至ってようやく演出の意図が少し見えたというべきか。男女一対の死体が徐々に腐って崩れて行って、最後にぼろぼろの骨になるまでをタンホイザーの「ローマ語り」の背景で陰陰滅滅と演じて見せる。
 このシーンは、単にローマ法王に免罪を拒非されたタンホイザーには全く救いがないことを示しているだけではなく、そもそも神の許しとか神の代理人としての法王の免罪とかには全く根拠がないことを暗示しているかもしれない。
 法王の免罪を得られなかったのもヴェーヌスグルグに滞在したからでなく、ヴェーヌスブルグの滞在でお金を使い過ぎて、免罪符を買うのに足りなくなってしまったからではないか。
 1849年のドレスデン蜂起で、バクーニンとともに銃を持って戦って凶状持ちになったワーグナーが、そうやすやすと神や法王の奇跡を信じているとは思えない。
 そんなワーグナーでも、1845年の初演から、1861年のパリ、1875年のウィーンと改稿に改稿を重ねるうち、聴衆の価値観や好みを「タンホイザー」に反映させてきたはずだ。
 そういうところも韜晦となってか、ワグナー作品にいろいろな解釈を許し、いろいろな演出を許すわけだろうが、最近のいわゆる新演出といわれるものに、しっくり来たためしがあまりないように思う。

 今回のバイエルン国立歌劇場の來日でも、同じキリル・ペトレンコ指揮で、同じクラウス・フォークトのテノールでワーグナーの「ワルキューレ」を、こちらは演奏会形式の公演をNHKの録画で聴いたが、あまりに素晴らしかったので一層そのように思う。

 バイエルン国立歌劇場のカタログです。

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 バイエルとは関係ないけど同じころ不思議な雲

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