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岐阜県中津川市 疎開先での黄金の日々 図らずも「長多喜」の大女将も同じころ疎開していたこと

 先月、松本の帰りに、恵那山を越えて、岐阜県の中津川市に行ってきた。中津川は実は私の疎開先だった街だ。
 中津川の街は、美濃と伊那の国さかい、偉容を誇る恵那山の北西斜面の台地上の中仙道の宿場町だ。

 1940年、名古屋生まれの私は、終戦の年の3月の大空襲以後、母に連れられて一家してこの中津川にあった遠い縁戚の下に疎開させていただいていた。 
 私たちの疎開先の家は母方の祖母の姉の嫁ぎ先で、街を南から北へ貫いて走り落ちる四つ目川の左岸の川べりの乾物屋さんだった。川に沿った店先の表戸を開けると目の前を四つ目川の急流が流れ落ち、右手には堂々とした恵那山、左手は白い中津川の作る扇状地がはるかに開けて見えた。中津川は扇状地を木曽川まで下っている。

 疎開先の家の二階から見晴るかすと、中津川がちょうど四ツ目川と合流する対岸には桃山という名の小山があった。この山はその名のとうり春になると何本もの桃の木の花がぱーっと一斉に満開になって輝いた。
 四ツ目川が中津川に合流するところに、桃山に向かって、中津川橋という真っ白な当時としては珍しかっただろうコンクリート製の真新しい橋が架かっていた。
 疎開した年の夏、たぶん私が四つのころ、この真っ白な橋の上で母と、兄の琢郎と、母の妹の京子伯母と一緒に撮った写真が残っている。幸せな束の間の黄金の時代。

 このころ、母のすぐ下の弟の舟橋陽二叔父も、まだ学生だったが一緒に疎開していた。
 本の虫だった陽二叔父は、跡取りのいなかった中津川の家の跡を継ぐために、進学を断念したがその代わり本屋に商売換えして、「栄文堂」と名づけて中津川に住み着いた。
  この「栄文堂」は、長男で、後に愛知県立精神医療センターのっ病院長となる舟橋龍秀さんの記憶にあるように、中津川近郊の本好きの青年たちのちょっとした小さなサロンになっていたようだ。
 私は小学校入学後も毎年の夏休みをこの中津川の陽二叔父のところで過ごし、四ツ目川の川原で遊び疲れると、店の奥の小部屋で珍しい本を読み漁っていた。
 まことに夏の束の間の黄金の日々の延長だった。

 四ツ目川べりの{栄文堂」は今はない。母も、陽二叔父も、京子叔母も、琢郎兄もいない。

 先月末、何十年ぶりだろう中津川に行ったときは、計らずも、市内から中津川橋を渡って桃山を登っていった奥まったところの「夜がらす山荘 長多喜」という料理旅館に宿を取った。
 あの黄金の日々の桃山!
 この「長多喜」は全六室が全て移築された古民家で、私たちが案内されたのは、今上天皇陛下が皇太子時代、木曽川の水害のお見舞いにお出でいただいた折お泊りになった、由緒ある「雲居の間」という名の回り廊下と庭つきの八畳 八畳 控えの間の一棟であった。
 これぞ夏休みの一日!
 この宿のお料理は基本は懐石だがその中で「鮎尽くし」というのを頼んでみた。
 活き造りの鮎が美味しかったこと!それに鮎の炊き込みご飯も!椀物も、炊き合わせも、八寸も。

 「夜がらす山荘 長多喜」は中津川宿の本陣近くにあった老舗の旅館だが戦前から、先々代が現在地に近郊の古民家などを次々と移築していま見る宿になったという。
 この先々代は亡くなられたそうだが、何と!現在の大女将は、私たちと同じころ中津川に疎開していた東京出の女性で、先々代に「攫らわれて」(大女将の言)そのまま「長多喜」の若女将として中津川に住み着いたのだそうだ。
 そんな話をいまの若旦那、吉田将也さんに伺っていたら、夕食後、噂の大女将がお部屋に立ち寄ってくれた。先々代でなくともきっと「攫らい」たくなっただろう美しい方だった。

 四ツ目川橋のたもとにて 川沿いの道が拡幅されて「栄文堂」は跡形も無い

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 いまはもう真っ白とはいえないが造りはは元のままの中津川橋

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 「夜がらす山荘 雲居の間」での夏休みの終わり

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 鮎の活き造り これが美味しかった

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 美しい大女将の前で恐縮している私

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